共謀罪の必要性

安倍内閣が今国会に「テロ等準備罪」に関わる法改正について法案を提出しようとしている。
過去に三度も廃案になっている共謀罪の焼き直しであるが、共謀行為について現行法で処罰できない事例として法務省が出した例が以下のようなものとなっている。

  • テロ組織が殺傷能力の高い化学薬品を製造し、これを用いて同時多発的に一般市民の大量殺人を行うことを計画した上、例えばした上、例ば、殺傷能力の高い化学薬品の原料の一部を入手した場合
  • テロ組織が複数の飛行機を乗っ取って高層ビルに突撃させるテロを計画した上、例えば、登場予定の航空機の航空券を予約した場合
  • テロ組織の複数のクラッカーが分担してウィルス・プログラムを開発し、そのウィルスを用いて全国各地の電力会社、ガス会社、水道会社等の電子制御システムを一斉に誤動作させ、大都市の重要インフラを麻痺させてパニックに陥らせることを計画した上、例えば、それらのクラッカーがコンピュータウィルスの開発を始めた場合

衆議院予算委員会(2月2日)



(共謀罪の議論が大事になりそうなので記録をする。この先書き足す予定だけどできるかな。)
委員会の議事の書き起こしをやっていたけど、思っていたより早く会議録が公開されているのでいったん削除する。後ほどポイントだけ記録していこう(03/09/2017)

平成28年12月14日参議院本会議(吉川沙織)

○吉川沙織君 民進党の吉川沙織です。 私は、ただいま議題となりました伊達忠一参議院議長不信任決議案に対し、会派を代表して、賛成の立場から討論を行います。 最初に申し上げたいのは、昨年九月のことを皆さん覚えておいででしょうか、安保法制採決の際に乱発をされた、本決議案の議事における趣旨説明については一人十五分討論その他の発言時間は一人十分に制限することの動議が与党から今回も提出されたことです。 確かに、我々は野党第一会派であるとはいえ、この議場においてもお分かりのとおり、議員数は少なくなってしまいました。しかしながら、日本国憲法第四十一条、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」と定めがあり、これらに基づき国会は多くの権能を有しています。これらの権能行使の基礎となる各議員も多くの権能が与えられ、議員には、議案提出、質疑、討論、表決という議事手続上の基本的機能のほかにも幾つかの権能が認められているのです。 そのうち、この討論については発言権に分類されますが、この議場での発言を始め議員の発言権は最も基本的な権能であるからこそ、先ほどの議院運営委員会の理事会においても発言時間を制限することの動議は出さないでほしい旨、何度も何度も与党に申し上げたのです。多数決原理と同時に、少数派の意見の尊重はあってしかるべきではないでしょうか。 今、日本は重大な岐路に差しかかっています。国家債務は一千兆円を超え、国内総生産の二〇〇%を超えるまでになっており、国の行く末さえ全く不透明で危機的な我が国の財政状況の中、ただひたすらに金融緩和にひた走り、その理論的旗振り役の学者は最近ではその誤りを認めるなど、アベノミクスとやらは破綻状態に陥っており、心ある専門家はハイパーインフレを強く懸念する声を上げていますが、政府は全く聞く耳を持ちません。 数十年前に失敗したレーガノミクスを教科書にしたアベノミクス、そしてバブル景気に浮かれた社会で発想しそうな特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案、いわゆるカジノ法案も、アジア地域では中国経済の失速、過剰投資などでカジノ産業が衰退する中、国民を巻き込んで一体どこへ向かうのでしょうか。 思い出されるのは、今回の特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案に対して、総合保養地域整備法、いわゆるリゾート法です。リゾート法は、地方振興策の手段として当時の政権がリゾート産業に着目して制定したにもかかわらず、同法に基づいて実施されたリゾート地域開発のほとんどは成果を上げることなく破綻し、地域社会に大きな傷痕を残したのです。 現政権は、諸外国で失敗した政策を周回遅れでなぞっているだけです。 競馬、競輪、競艇、パチンコなど我が国のギャンブル、遊技機市場は、その規模では約二十六兆円のギャンブル大国です。カジノの市場規模は世界全体でも約十八兆円とされる中で、日本をこれ以上カジノでどうしようとするおつもりなのでしょうか。 強い日本を取り戻そうとする総理は、アメリカの悪い例をまねして、時代遅れの政策を看板の掛け替えだけで行っているのです。そのお手本のアメリカでは、次期大統領が強いアメリカを目指しているようですが、願わくば、我が国の轍を踏まないことを祈るばかりです。 一方、政府は、各種政府施策を説明する際に安心、安全という言葉をまるで呪文のように理由付けとして乱発しておりますが、国の根幹、国の形を抜本的に揺るがすこと必然のカジノ導入を新たな成長戦略と全く根拠のない理由を喧伝し、日本を安全、安心と正反対の環境にしようとしております。 おもてなしの心で観光大国を目指すという我が国が、カジノで外国人観光客を誘致しようとは何事でしょうか。海外の観光客は、日本らしさを求めて我が国を訪れるのであって、海外発祥のカジノに積極的に行くとはなかなか考えづらいのではないでしょうか。 それとも、日本国民にカジノを奨励し、国の治安を毀損し、国民の体感治安を更に悪化させたいのですか。それとも、国民の所得格差がどんどん開く中で、カジノでもっと貧富の差を拡大しようとするのでしょうか。 国民が一致団結して、将来世代が安心して暮らすことができるよう、今ある財政上の難局を乗り切るための長期的視点に立った政策を考えるべきではないでしょうか。 その上、政府・与党は、国民世論をその都度使い分けており、一回目の消費税率引上げ延期では国民世論を理由とし、カジノ法案については、新聞各紙がこぞってその問題点を数多く指摘する中で、その国民世論を全く無視し、日本社会をカジノやオリンピックに浮かれさせ、厳しい財政状況のことを忘れさせるため、感覚的に麻痺させようとでもするつもりなのでしょうか。 現政権は、破綻状態の危機に瀕する財政事情と全く反する政策ばかり行っています。東京湾では、東京都の築地市場豊洲市場への移転、東京オリンピックパラリンピックに伴う各種施設の新設、カジノ施設やレジャー施設の新設の推進などというのは、バブル時代で財政に余裕があった時代の公共事業乱発、土建国家の復活ではないでしょうか。 九年前の夏、被選挙権を得たばかりの三十歳で本院に議席を預かった私は、就職氷河期世代の一人であり、必死に就職活動をしたのが平成十年、会社員として社会に出たのが平成十一年、バブル経済は既に崩壊した後のことでした。つまり、右肩上がりの日本社会や経済を知らない世代であり、多くの借金を背負わされる世代でもあります。でも、その借金はこれまでの政権が積み重ねてきたのです。その古い時代の財政手段を駆使した財政手法の復活、これが新成長戦略とはあきれたものです。 このような間違った行政運営が行われる中で、行政府をチェックする役割が我々立法府に課された重要な機能であることは論をまちません。その機能を担う組織の長が参議院議長です。それも、我が参議院良識の府です。この現政権を正すのが国会であり、良識ある参議院のあるべき姿です。 ところが、このような重要な時期にある状況において、延長国会に入ってから、しかも、会期末まで残り一週間しかない時期に、与野党の合意を基本とする議員立法でありながら、衆議院内閣委員会で採決が強行され、異常な形で参議院に送付されてきたカジノ法案の審議入りを議長は容認したのです。 私は、議院運営委員会の理事会で、本法律案が議員立法であるにもかかわらず、各会派間で丁寧な合意形成を図ることなく、さらには国家公安委員長の常時出席や連合審査会開催の合意をほごにした上、たった五時間三十三分の質疑のみで衆議院内閣委員会で採決が強行され、異常な形で参議院に送付されたカジノ法案の拙速な審議入りは断じて認められないと一貫して強く反対してきました。 そもそも、現在の政権並びに議会運営は、民主主義イコール多数決という間違った考え方に基づいて、数の力で強引に政策を強行しようとしています。これをただし、少数派の意見を十分反映した慎重な審議が行われるよう指導するのが議長のなすべき仕事です。行政府や与党の意に沿うよう議会運営を、そして議事運営を行うことではありません。 もちろん、封建時代から近代国家に至るまで、議会制度の発達の歴史の中において多数決原理が議会制度を支える柱として重要であることは認識しています。しかしながら、多数決原理は、あくまでも相対的なものであり便宜的なものです。したがって、ある国会のあるときにおいて決定されたそのものが正しいかということは、歴史によってしか証明されないのです。 この多数決原理がよく機能するためには、言論の自由の保障、集団のある程度の同質性、集団内の多種多様な利害、主張を統合していくための制度的メカニズム、少数者に決定への参画の自覚を与え、決定受容の心理的準備の機会を与える実質的議論の場、そして決定に対する全構成員の受容が必要です。これらの点を勘案するならば、この多数決原理と同時に少数派の意見の尊重があって初めて議会の公正なる運営がなされると考えます。

○副議長(郡司彰君)  時間が超過をいたしております。簡単に願います。

○吉川沙織君(続)  したがって、選挙のときに多数を取ったならば後は何をやってもよいという多数決原理は、一党独裁であると言わざるを得ません。  良識の府たる参議院を代表する参議院議長の職責としては、少数派の意見を議会の審議にいかにして反映させるかということに重点を置かねばならないにもかかわらず……

○副議長(郡司彰君)  吉川君、簡潔に願います。

○吉川沙織君(続)  少数派の意見を十分に尊重しない議会運営、議事運営となっているのです。 昭和五十二年十一月に参議院改革協議会が初めて設置されてから約四十年。この間、歴代議長の下で参議院改革のためのたゆまぬ努力が続けられ、参議院の在り方に関する諸問題等について

副議長(郡司彰君)  時間が超過をしております。

○吉川沙織君(続)  議会の先人により多くの改革が実施されてきました。多くの参議院改革がなされてきたその理由の一つに、参議院の存在意義が問われた時代があったことは言うまでもありません。 昭和六十年一月二十一日、「各会派代表者懇談会における議長所見と提案」の中で、「参議院は、憲法上認められた二院制の下において、衆議院の行き過ぎを抑制し、また、衆議院の機能を補完することにより、独自性を発揮し、」……

○副議長(郡司彰君)  吉川君、時間が超過をいたしております。簡単に願います。

○吉川沙織君(続)  「国政の運営を慎重かつ健全ならしめ、民主主義国家の発展に寄与し、国民の負託に応える使命をもつものであることは申すまでもありません。」、そして「議会制民主主義の下において民主主義政治を立派に発展させるためには、憲法に規定されているとおりに二院制の長所を伸ばすことが肝要であり、参議院無用論の如きは甚だ遺憾にたえませんが、こうした批判が出ることについては謙虚に反省する必要があるものと考えます。」。(発言する者あり)もう少しで終わります。

○副議長(郡司彰君)  吉川君、時間が超過をしております。

○吉川沙織君(続)  ルソーのように、国民の総意が単一不可分であるとすれば、これを代表すべき議会も単一の議院であるべきだとする一院制の主張が生まれますが、今日でもなお多くの国において二院制が採用されています。二院制の存在意義の論拠は、代表の多様性の確保、議会における慎重審議、二院の間における相互抑制、補完にあると考えます。 旧憲法下においても貴族院衆議院両院は相互牽制が想定されていましたし、また、昭和六十一年三月五日、衆議院公職選挙法改正に関する調査特別委員会において、当時の自治大臣も、「本来二院制は、我が国で言えば衆議院参議院、」……

○副議長(郡司彰君)  吉川君、時間が超過をしております。

○吉川沙織君(続)  「両方とも直接選挙になっておりますけれども、お互いの性格や立場上それぞれの観点に立って、特に参議院良識の府と言われておりますが、そういう両者の観点からお互いにチェックし合い、あるいは補完、協力し合うことによって政治の理想により一歩でも近づいていこう、そういう知恵の産物として二院制度をとられたものと思いますし、お互いが機能することによって所期の目的に達することができ、そのように機能してきておると考えております。」。 しかるに、参議院の果たす役割は大きく、そしてまた、参議院の権威を考えたとき、伊達議長の議会運営、議事運営は良識の府たる本院の議長として承服できるものではなく、提出されております伊達忠一議長不信任決議案に対し賛成の意を表し、私の賛成討論といたします。 ありがとうございました。(拍手)

平成28年11月24日憲法審査会(枝野幸男)

○枝野委員 民進党・無所属クラブを代表して、立憲主義についての見解を申し述べます。
 近代立憲主義は、絶対王政を制約する原理としてスタートしましたが、国民主権と民主制のもとでその意義がますます大きくなっています。というのも、国民主権のもとでは、立法、行政や司法という公の権力について、その正統性の根拠が憲法にこそ存在するからです。
 公の権力は、主権者たる国民が憲法によって定めた手続、選挙などでありますが、この手続に基づく場合に限り、かつ憲法で定めた範囲に限って正統性を有します。初期の近代立憲主義が、王権の存在を前提に、それを制約するにとどまる考え方であったのに対し、国民主権のもとでは、そもそも憲法に定められた範囲でしか公権力の行使が認められないのですから、立憲主義の意義は飛躍的に拡大をしています。
 私たち公権力をお預かりしている者が、憲法によって拘束されているという立憲主義の意味を否定したり軽視したりすることは、みずからの正統性を自己否定することにほかなりません。自由民主党の改正草案は、立憲主義に反し、憲法を統治の道具であるかのごとく考えていると受け取られても仕方がない内容になっています。
 言うまでもなく、統治権の正統性の根拠である憲法を統治の道具として扱うのは矛盾です。憲法で国民を拘束しようなどという考え方をしている皆さんは、公権力の正統性の根拠をどのように考えているのでしょうか。憲法なくして公権力に正統性はなく、憲法を統治の道具とするかのごとき考え方は、天賦人権説ならぬ、天賦公権力説とでも呼びたくなります。
 こうした立憲主義の本旨を踏まえるならば、憲法議論は、公権力行使の手続や限界について、主権者たる国民が統治者をどう制御するかという観点からなされなければなりません。
 国家国民をどう統治するかという問題や、その統治権を通じて日本という国家と社会の未来をどう描くのかというのは、憲法に規定された手続と憲法によって預けられた権限の範囲内でそれぞれが主張し、実現を図るものです。憲法についての議論を意味あるものとするためには、この点の認識の共有が必要であります。
 ところで、立憲主義を無視したり軽視したりする声は、保守を自称したり、保守と位置づけられる側に目立つように思います。
 保守主義は、フランス革命の急進過激な変革に対するアンチテーゼとして生まれました。歴史と伝統を重視し、急激な変化を否定する考え方です。その背景にあるのは、人間は不完全な存在であり、完璧な洞察力と判断力を有する人間は存在しないという謙虚な人間観です。
 不完全な人間がつくる社会も常に不完全であるとして、理想の社会を目指してまっしぐらに社会を変えていこうという理想主義や急進改革を否定したのです。過去も現在も未来も社会は常に不完全であり、理想の社会というものはあり得ないのだから、過去から積み重ねられた現在をベースに、その間に得られた経験知を生かして社会を少しずつよくしていこうと考えるのです。
 政治論における保守主義は、法の世界で立憲主義となります。特に、民主制のもとにおける立憲主義の重要な根拠の一つは、保守思想に求められます。
 人間も社会も常に不完全であるという保守主義の謙虚な人間観に基づけば、民主制度といえども理想とは位置づけられません。民主制のもとでも社会や人間は間違えることがある、その場合に社会全体が一気に間違った方向に進まないよう、経験知の結集である憲法によって歯どめをかけ、より慎重な手続を求める、これが保守思想に基づく近代立憲主義の意義です。
 したがって、立憲主義を重視しない保守はまがいものです。さらに言えば、少なくとも、現代においていわゆる押しつけ憲法論を振りかざしたり、憲法典の全面改正、すなわち、新憲法制定を唱えたりする方々は、保守と対極にあります。
 日本国憲法の制定経緯についてどのような見方に立とうとも、日米戦争に敗れ、ポツダム宣言大日本帝国の国家主権に基づいて受諾したことは間違いありません。我が国が七十年にわたって日本国憲法のもとで歴史を積み重ね、主権者国民の間にその憲法が定着していることも間違いありません。歴史と伝統を重視するなら、これらの歴史も当然直視すべきです。自分に都合のよい部分だけを取り上げて歴史や伝統と位置づける立場は、真の保守とは言えません。
 そして、急進過激な変革を否定する保守の立場と、新憲法制定、すなわち革命にも匹敵するような憲法典の全面改定案を唱えることは、本来両立しがたいものであります。こうした観点から、最大会派である自由民主党の認識をぜひとも伺いたいと思っています。
 十七日の当審査会における中谷筆頭の御発言、それから今の上川幹事の御発言では、立憲主義と、あるいは現行憲法の三大原則を守る旨の御発言がございました。それが安倍総裁を含めた自由民主党の総意であるならば歓迎をしたいと思います。ところが、他方で、自民党は、立憲主義を踏まえず、三大原則を大きく変更する内容の憲法全面改定草案を発表しています。
 どうやらその草案は棚上げをされたようですが、撤回はされていません。中谷筆頭などの発言との整合性はどうなるのでしょうか。本当は草案のような立憲主義を否定する改正をしたいのだけれども、それを言うと議論が進まないから二枚舌を使っているのでしょうか。あるいは、あの草案について、立憲主義を踏まえたものだと認識しているのでしょうか。そうだとすれば、立憲主義についての認識が百八十度違うと言わざるを得ず、建設的な議論は困難です。
 草案をこれからどのように扱うのかを含め、これらの点の御説明と、それが安倍総裁を含む自由民主党の総意と受けとめてよいのかどうかについて明確な御認識をお示しいただきたいと思います。
 同時に、約半世紀にわたってみずからが述べてきた集団的自衛権の解釈を一方的に変更したいわゆる安保法制について、立憲主義や保守思想との関係を明確に説明していただきたいと思います。
 最後に、ここから先は今後の議論に向けた私見として申し上げたいと思います。それは行政府による議会の解散権の問題です。
 王権を制約する初期の近代立憲主義においては、議会が徐々に権能を強める一方で、王権の側に議会を牽制するための解散権が認められるというのが普通でした。その後、王権は民主制に根拠を持つ行政府へと変わってきましたが、議院内閣制を採用する多くの国で、王権の有していた議会解散権は行政府に引き継がれました。しかし、二十世紀の半ばから現代まで、行政府による議会の解散権は徐々に縮小しています。というのも、議院内閣制では行政府と議会の多数派は一致するのが基本であり、その場合には行政府と議会との間に緊張が働かず、一方に解散権を持たせる合理的な理由が見出せないからです。
 議会による不信任に対抗する手段としての議会解散ならば、立法府と行政府の適度な緊張をもたらします。しかし、不信任もされていない状況、つまり、議会の多数派を占めながら議院内閣制のもとでの行政府が議会を解散することを認めれば、多数派である行政府による恣意的な選挙が可能になり、議会に対する行政府の優位性を強めるだけで、権力分立原則からも、議会や、あるいはそれを通じての選挙民、有権者による行政に対するチェック機能という観点からも望ましいものではありません。
 こうした認識が主流になり、ドイツでは第二次世界大戦後の基本法で行政府による解散の制度がなくなり、英国では二〇一一年から不信任の場合を除く解散が認められなくなっています。立憲主義の現代的意義を踏まえるとき、権力の濫用を防ぐ観点から適切、妥当な流れです。
 日本国憲法衆議院解散権について不信任を要件としないいわゆる七条解散が可能であることは、当初の立法意思はともかくとして、少なくとも慣習憲法として認められていると言わざるを得ません。
 私は、このいわゆる七条解散を禁止し、衆議院の解散を内閣が不信任された場合に限定することが、立憲主義をさらに深化させる意味から合理的であると考えます。これこそが、世界の潮流を踏まえ、時代の変化に対応した憲法議論であると思います。私も党内でこの論点について議論を進めますので、各党会派においてもぜひ御議論をいただきたいとお願いを申し上げます。
 最後に、前回も申しましたとおり、憲法に密接に関連する基本法制の調査は、国会法に定められた憲法審査会の任務です。皇室典範はまさにこの憲法に密接に関連する基本法制そのものでありますから、これについて調査するのは、国会法に規定された憲法審査会の任務です。天皇の譲位について有識者の閉ざされた議論が先行するのは、天皇が国民統合の象徴であるというその地位に照らしても妥当ではありません。譲位の問題について国民の代表機関である国会において速やかに議論する責任があり、それを担うのは、国会法に照らして憲法審査会しかありません。このことを改めて強く強調して、私の発言を終わります。

「女子学生の13%が援助交際」の元発言となった会見の動画


日本の女子学生の30%(13%)が援助交際をしているという国連の報告はあったことでいろいろ騒ぎになっているがこれがその元の会見の動画である。該当部分はちょっと見たけど言葉が入り組んでいて明確でない。後でじっくり見て検証するつもり。

労働者派遣法

安保法案の陰になってあまり話題にならなかったが労働者派遣法が改正された。これもまた色々と問題のある改悪である。
民主党政権時代に追加された違法派遣が発覚した場合のみなし雇用の義務付けなど労働者保護の部分が大きく転換され、労働事業者に有利な改悪が行われている。これについても時間が許す限り検証していきたい。

安保法案成立

野党の抵抗も虚しく安保法制が成立してしまった。
野党は安保特別委員会で委員長の不信任決議案の提出、参議院で内閣問責決議案の提出、衆議院内閣不信任決議案の提出などいつもの手段で抵抗をしたが時間切れで与党の多数で可決されてしまった。この野党の抵抗についてネットでも牛歩などは邪道だとか見苦しいという批判が見られた。しかしこの安保法案に限らず安倍内閣の提出した法案については国会での議論を通じていろいろな問題点が指摘され明らかになっていたが与党側は「指摘は当たらない」と言うだけで修正をしようという動きがまったく見られなかった。すでに選挙で多数を握っている与党は手順さえいつでも可決できるので批判側がいくら追求しても知らん顔をすれば何も手出しができない。野党にできるのは時間を稼いで会期末の時間切れで審議未了廃案にすることだけである。そういう点で今回の野党の行動に対する批判というのはかならずしも当たらないというのが私の考えである。
もうしばらくの間はこの法案についての問題点を少しづつでも検討していくつもりである。