平成28年11月24日憲法審査会(枝野幸男)

○枝野委員 民進党・無所属クラブを代表して、立憲主義についての見解を申し述べます。
 近代立憲主義は、絶対王政を制約する原理としてスタートしましたが、国民主権と民主制のもとでその意義がますます大きくなっています。というのも、国民主権のもとでは、立法、行政や司法という公の権力について、その正統性の根拠が憲法にこそ存在するからです。
 公の権力は、主権者たる国民が憲法によって定めた手続、選挙などでありますが、この手続に基づく場合に限り、かつ憲法で定めた範囲に限って正統性を有します。初期の近代立憲主義が、王権の存在を前提に、それを制約するにとどまる考え方であったのに対し、国民主権のもとでは、そもそも憲法に定められた範囲でしか公権力の行使が認められないのですから、立憲主義の意義は飛躍的に拡大をしています。
 私たち公権力をお預かりしている者が、憲法によって拘束されているという立憲主義の意味を否定したり軽視したりすることは、みずからの正統性を自己否定することにほかなりません。自由民主党の改正草案は、立憲主義に反し、憲法を統治の道具であるかのごとく考えていると受け取られても仕方がない内容になっています。
 言うまでもなく、統治権の正統性の根拠である憲法を統治の道具として扱うのは矛盾です。憲法で国民を拘束しようなどという考え方をしている皆さんは、公権力の正統性の根拠をどのように考えているのでしょうか。憲法なくして公権力に正統性はなく、憲法を統治の道具とするかのごとき考え方は、天賦人権説ならぬ、天賦公権力説とでも呼びたくなります。
 こうした立憲主義の本旨を踏まえるならば、憲法議論は、公権力行使の手続や限界について、主権者たる国民が統治者をどう制御するかという観点からなされなければなりません。
 国家国民をどう統治するかという問題や、その統治権を通じて日本という国家と社会の未来をどう描くのかというのは、憲法に規定された手続と憲法によって預けられた権限の範囲内でそれぞれが主張し、実現を図るものです。憲法についての議論を意味あるものとするためには、この点の認識の共有が必要であります。
 ところで、立憲主義を無視したり軽視したりする声は、保守を自称したり、保守と位置づけられる側に目立つように思います。
 保守主義は、フランス革命の急進過激な変革に対するアンチテーゼとして生まれました。歴史と伝統を重視し、急激な変化を否定する考え方です。その背景にあるのは、人間は不完全な存在であり、完璧な洞察力と判断力を有する人間は存在しないという謙虚な人間観です。
 不完全な人間がつくる社会も常に不完全であるとして、理想の社会を目指してまっしぐらに社会を変えていこうという理想主義や急進改革を否定したのです。過去も現在も未来も社会は常に不完全であり、理想の社会というものはあり得ないのだから、過去から積み重ねられた現在をベースに、その間に得られた経験知を生かして社会を少しずつよくしていこうと考えるのです。
 政治論における保守主義は、法の世界で立憲主義となります。特に、民主制のもとにおける立憲主義の重要な根拠の一つは、保守思想に求められます。
 人間も社会も常に不完全であるという保守主義の謙虚な人間観に基づけば、民主制度といえども理想とは位置づけられません。民主制のもとでも社会や人間は間違えることがある、その場合に社会全体が一気に間違った方向に進まないよう、経験知の結集である憲法によって歯どめをかけ、より慎重な手続を求める、これが保守思想に基づく近代立憲主義の意義です。
 したがって、立憲主義を重視しない保守はまがいものです。さらに言えば、少なくとも、現代においていわゆる押しつけ憲法論を振りかざしたり、憲法典の全面改正、すなわち、新憲法制定を唱えたりする方々は、保守と対極にあります。
 日本国憲法の制定経緯についてどのような見方に立とうとも、日米戦争に敗れ、ポツダム宣言大日本帝国の国家主権に基づいて受諾したことは間違いありません。我が国が七十年にわたって日本国憲法のもとで歴史を積み重ね、主権者国民の間にその憲法が定着していることも間違いありません。歴史と伝統を重視するなら、これらの歴史も当然直視すべきです。自分に都合のよい部分だけを取り上げて歴史や伝統と位置づける立場は、真の保守とは言えません。
 そして、急進過激な変革を否定する保守の立場と、新憲法制定、すなわち革命にも匹敵するような憲法典の全面改定案を唱えることは、本来両立しがたいものであります。こうした観点から、最大会派である自由民主党の認識をぜひとも伺いたいと思っています。
 十七日の当審査会における中谷筆頭の御発言、それから今の上川幹事の御発言では、立憲主義と、あるいは現行憲法の三大原則を守る旨の御発言がございました。それが安倍総裁を含めた自由民主党の総意であるならば歓迎をしたいと思います。ところが、他方で、自民党は、立憲主義を踏まえず、三大原則を大きく変更する内容の憲法全面改定草案を発表しています。
 どうやらその草案は棚上げをされたようですが、撤回はされていません。中谷筆頭などの発言との整合性はどうなるのでしょうか。本当は草案のような立憲主義を否定する改正をしたいのだけれども、それを言うと議論が進まないから二枚舌を使っているのでしょうか。あるいは、あの草案について、立憲主義を踏まえたものだと認識しているのでしょうか。そうだとすれば、立憲主義についての認識が百八十度違うと言わざるを得ず、建設的な議論は困難です。
 草案をこれからどのように扱うのかを含め、これらの点の御説明と、それが安倍総裁を含む自由民主党の総意と受けとめてよいのかどうかについて明確な御認識をお示しいただきたいと思います。
 同時に、約半世紀にわたってみずからが述べてきた集団的自衛権の解釈を一方的に変更したいわゆる安保法制について、立憲主義や保守思想との関係を明確に説明していただきたいと思います。
 最後に、ここから先は今後の議論に向けた私見として申し上げたいと思います。それは行政府による議会の解散権の問題です。
 王権を制約する初期の近代立憲主義においては、議会が徐々に権能を強める一方で、王権の側に議会を牽制するための解散権が認められるというのが普通でした。その後、王権は民主制に根拠を持つ行政府へと変わってきましたが、議院内閣制を採用する多くの国で、王権の有していた議会解散権は行政府に引き継がれました。しかし、二十世紀の半ばから現代まで、行政府による議会の解散権は徐々に縮小しています。というのも、議院内閣制では行政府と議会の多数派は一致するのが基本であり、その場合には行政府と議会との間に緊張が働かず、一方に解散権を持たせる合理的な理由が見出せないからです。
 議会による不信任に対抗する手段としての議会解散ならば、立法府と行政府の適度な緊張をもたらします。しかし、不信任もされていない状況、つまり、議会の多数派を占めながら議院内閣制のもとでの行政府が議会を解散することを認めれば、多数派である行政府による恣意的な選挙が可能になり、議会に対する行政府の優位性を強めるだけで、権力分立原則からも、議会や、あるいはそれを通じての選挙民、有権者による行政に対するチェック機能という観点からも望ましいものではありません。
 こうした認識が主流になり、ドイツでは第二次世界大戦後の基本法で行政府による解散の制度がなくなり、英国では二〇一一年から不信任の場合を除く解散が認められなくなっています。立憲主義の現代的意義を踏まえるとき、権力の濫用を防ぐ観点から適切、妥当な流れです。
 日本国憲法衆議院解散権について不信任を要件としないいわゆる七条解散が可能であることは、当初の立法意思はともかくとして、少なくとも慣習憲法として認められていると言わざるを得ません。
 私は、このいわゆる七条解散を禁止し、衆議院の解散を内閣が不信任された場合に限定することが、立憲主義をさらに深化させる意味から合理的であると考えます。これこそが、世界の潮流を踏まえ、時代の変化に対応した憲法議論であると思います。私も党内でこの論点について議論を進めますので、各党会派においてもぜひ御議論をいただきたいとお願いを申し上げます。
 最後に、前回も申しましたとおり、憲法に密接に関連する基本法制の調査は、国会法に定められた憲法審査会の任務です。皇室典範はまさにこの憲法に密接に関連する基本法制そのものでありますから、これについて調査するのは、国会法に規定された憲法審査会の任務です。天皇の譲位について有識者の閉ざされた議論が先行するのは、天皇が国民統合の象徴であるというその地位に照らしても妥当ではありません。譲位の問題について国民の代表機関である国会において速やかに議論する責任があり、それを担うのは、国会法に照らして憲法審査会しかありません。このことを改めて強く強調して、私の発言を終わります。